▶ 2014年1月号 目次
1973年・第四次中東戦争体験記④-他国に先駆けてイスラエル独立を承認したスターリン-
鶴木 眞
かつて「中東戦争」と言えば、「イスラエルvsアラブ」のパレスチナの帰属を大義名分とする4次の戦争を意味していた。第一次中東戦争は、1948年5月15日、パレスチナにおけるイギリスの「委任統治」が修了するのを待って、この地域は国際連合総会決議(1947年11月)に従って、ユダヤ人国家「イスラエル」とアラブ人国家「パレスチナ」が樹立されることになっていた。しかし「アラブ連盟」は、この決議に反対し、アラブ諸国がイスラエルに戦端を開いた。イスラエル側に向かって侵攻したアラブ軍団は、エジプト、ヨルダン、イラク、シリア、レバノンの正規軍と、サウジアラビアの遠征部隊から構成されていた。アメリカは、トルーマン大統領の決断によりイスラエル独立を最初に承認(1948年4月)していた。今日では信じがたいかも知れないが、ソ連邦も同年5月イスラエルの独立を承認するとともに、勢力下に置くことになったチェコスロバキアからイスラエルが戦うための武器を提供させたのであった。第二次世界大戦当時、チェコスロバキア製の銃器は精度のよさで高く評価されていた。
アメリカはユダヤ系市民の政治的・経済的影響力が大きかったことが背景にあったとしても、ソ連邦にとっては第二次世界大戦直後の中東地域の政治体制はエジプト、イラク、イラン、ヨルダンが王制で親欧米であったのに対し、イスラエルを建国した現代シオニズムの思想は社会主義であり、その担い手はロシア・ポーランド系ユダヤ人が主体であったことが、「イスラエル」の国家的独立を承認した背景であった。スターリンは、「イスラエル」を承認することによって、中東地域に政治的楔を打ち込むことを狙ったのである。
ロシアの共産主義革命には、「リトアニア・ポーランド・ロシア・ユダヤ人労働者総同盟(Bund)」の貢献も歴史的に無視できない事実であり、同じ土壌から出て「ユダヤ人解放」の方法論を共産主義インターナショナリズムではなく、ユダヤナショナリズムに設定した「現代シオニズム」国家「イスラエル」は、思想的に取り込むことが可能だと判断したのである。事実、イスラエル建国時の政治指導者たちのほとんどは、ロシア生まれやポーランド生まれで、ロシア語に堪能であった。初代駐ソ連邦大使は、後に第5代首相(1969-74)となった女傑ゴルダ・メイヤーであり、キエフ生まれでソ連邦要人とのパイプが繋がっていたと言われている。
第一次中東戦争は、最終的にイスラエルが優勢の情勢下で1949年2月から7月にかけてロードス島でエジプト、ヨルダン、レバノン、シリアとイスラエルの間で個別的に休戦協定が結ばれ戦闘が停止された。独立パレスチナ国家が樹立される筈であった土地は、イスラエルだけでなく、同じアラブ人国家のエジプト、ヨルダンに分割併合されてしまった。独立国家は日の目を見なかった。エジプトにより併合された地域はガザ回廊、ヨルダンに併合された地域は東エルサレムとヨルダン川西岸であった。シリアはガリラヤ湖に面したゴラン高原の一部イスラエル予定地を併合した。 現代パレスチナの政治状況は、同じアラブ人国家からも裏切られたことが大きく作用している。
鶴木 眞 綱町三田会会員(東大名誉教授)