▶ 2014年2月号 目次
1973年・第四次中東戦争体験記⑥-人造国家イスラエル:現代ヘブライ語事はじめ-
鶴木 眞
現代イスラエルは、政治社会学的には「nation building」の実験国家でもあった。現在国語となっている「現代ヘブライ語」は、人造的に「古代ヘブライ語」を基に創った言葉である。ラテン語が現在でもカトリック教会で存続しているように、「古代ヘブライ語」もユダヤ教とキリスト教の世界で共通する「聖書」の言葉として存続していた。しかし、この言葉は生活用語ではなくなっていたため、新生イスラエル国家の国語とするには、多くの困難が立ちはだかった。ユダヤ人がデアスポラ(流浪の民)となって以来、東ヨーロッパに定住したユダヤ人社会は、ヘブライ文字を使いドイツ語に近い「イーディッシュ語」を創りだした。同様に、イスラム支配下のイベリア半島に定住したユダヤ人社会では、ヘブライ文字を使いスペイン語に近い「ラディノ語」を創りだした。さらに、ドイツのユダヤ人社会では、「イーディッシュ語」ではなく「正当なドイツ語」を使いこなせることが自慢であった。「ドイツ・ユダヤ人」は、東欧のユダヤ人から「イェッケ」(ヤッケのこと)と呼ばれて、そのスノービッシュさを揶揄された。ヒットラーが政権をとり、反セミティズムを掲げた当初、「ドイツ・ユダヤ人」社会ではヒトラーの嫌悪の対象は、東欧から流入してくる同宗教(ユダヤ教)の野蛮人であって、自分たちではないと信じていたほどであった。エジプトからモロッコに至る北アフリカや、エチオピア、イェーメン、トルコ・シリアからインドのボンベイ(ムンバイ)に至る地域にもユダヤ人のデアスポラ(流浪の民)コミュニティが存在した。
フランス、オランダ、イギリスなどの西ヨーロッパや、北アメリカにも多くの人口をかかえるユダヤ人社会が存在した。現代シオニズムが想定したユダヤ人国家再興の理念は、ユダヤ人が多数派をしめる国家を創ることと、世界のユダヤ人の大部分が移り住む国家とすることであった。
母語が異なるユダヤ人が現代イスラエル国家に移住してきた時に、公用語をどうするのかは現代シオニズムの大きな課題であった。それへの解答は、すべてのユダヤ人の「リンガ・フランカ」としての「ヘブライ語」の復活であった。しかし聖書の言葉、宗教の言葉として残っていた古代ヘブライ語には、例えば「絨毯」はあっても「飛行機」は単語として存在していない。古代語を現代化することは容易ではなかった。
現代イスラエル社会を統合するために、新たな移住者に無償で「現代ヘブライ語」を修得してもらうための学校(「ウルパン」と呼ばれている)が整備された。私もヘブライ大学に登録を済ませたその日から、キャンパス内の「ウルパン」に通わされることになった。クラスメートはアメリカから来た大学生の一団だった。彼らのルーツである古代遺跡を巡ることを理由に欠席が多かったが、如何に世俗的なユダヤ人と言えども、ヘブライ語は陰に陽に彼らの日常生活に溶け込んでいた。丸暗記するしかない私とは、圧倒的に有利なスタートラインに立っていた。
親しくなった級友が、私の家にやってきて電話を貸してやったら、ニューヨークまで電話をかけた請求書が送られてきたのには、閉口した。
鶴木 眞 綱町三田会会員(東大名誉教授)