▶ 2014年4月号 目次
プリツカー賞受賞・坂茂さんの原動力
中島みゆき
「建築界のノーベル賞」とも言われるプリツカー賞の今年の受賞者に世界各地の被災地で支援活動に取り組んできた建築家の坂茂さん(56)が選ばれた。20年以上にわたり創造性と質の高いデザインで災害後の過酷な状況に対応してきたことが評価された。坂さんの宮城県女川町の多層仮設住宅建設での取り組みについては本欄(2011年11月、12月)でも伝えたが、その活躍を支える原動力は何なのか。間近に坂さんの仕事を見た経験から振り返ってみたい。
「建築家は社会に何ができるか」
宮城県女川町の多層仮設住宅は、コンテナを積み上げて造った日本初の2~3階建て仮設住宅だ。リアス式地形で平地が少ない女川町に坂さんが提案した。明るい色調の外観と居住性にこだわった室内が特徴で町民からは「女川ヒルズ」と呼ばれている。
この仮設建設を支えたのは、「地震で人が亡くなるのではない。建物が壊れるから亡くなる。対応するのは建築家の責任だ」という坂さんの考えと、それに賛同する国内外の出資者、そして学生や社会人によるボランティアだ。約3カ月間にのべ200人が全国から集まり、約2000個の棚を作り189戸に設置した。
「皆さんが作る棚が被災した方の暮らしにどんな意味を持つか、想像しながら作業してください」と坂さんはボランティアにしばしば声を掛けた。多忙な時間をさいては彼らと酒を飲み語り合い、一人一人に自著を手渡す。帯には「医者や弁護士はつねに弱者のために働いている。建築家は社会になにができるだろう」という言葉がある。
「住むことは人権の重要な部分」
坂さんは日本の建築界では異色の存在だ。東京都出身。成蹊高校卒業後、米国で建築を学んだ。94年、ルワンダで虐殺が起こると難民のためのシェルターを企画し国連高等弁務官事務所に提案。体当たりのアプローチで採用された。95年に自らの災害救援活動をするためのボランティアNPO「ボランタリー・アーキテクツ・ネットワーク」(VAN)を設立。これまで慶応大学とバーバード大学で教壇に立ち、現在は東京、ニューヨーク、パリの3カ所に事務所を持ち、京都造形芸術大学の教授を務めている。
何より特徴的なのは、その機動力だ。東日本大震災直後、避難所への間仕切り設置を行政担当者から「管理できない」と断られた時は、押しかけて実演し行政トップに直談判した。女川でも前町長に多層仮設住宅の意義を強く訴えた。その根底には「住むことは人権の基本」という強い信念がある。
2011年11月、女川町の仮設住宅完成式典で坂さんは「世界に例のない素晴らしい仮設住宅を造ることができた。この仮設を新たなスタンダードにしたい」と宣言した。その後、坂さんは国土交通省に働きかけ、災害時の仮設供給マニュアルが作成された。
「紙の建築も愛されれば永遠に」
今回評価された要素の一つに「素材への挑戦」がある。坂さんはルワンダ以来、その土地で手に入るシンプルで斬新な素材を使ってきた。阪神大震災時はプラスチックのビールケースに土を詰めベトナム難民用の仮設住宅の基礎とした。女川の仮設住宅もコンテナを使うことにより、3カ月という短期で集合住宅9棟の建設を可能にした。
とりわけルワンダ以来使っている紙管は、軽量で人手さえあれば特別な機械なしで構造を組み立てられることから、坂さんの建築を代表する素材となっている。神戸市長田区の「紙の教会」は約10年使われた後で台湾に移築され現存している。昨秋、ニュージーランド・クライストチャーチの大聖堂完成式典で坂さんは「経済的な目的のために建てられた建物は儲からなくなれば解体されてしまう、いわば仮設。一方、紙でできていても愛されれば建物は恒久なものになる」と語った。
プリツカー賞は米国のハイアット財団が、人類に大きく貢献した建築家に与える賞で、日本人では槇文彦さんや安藤忠雄さん、伊東豊雄さんらが受賞し坂さんは7人目。受賞を自ら「意外」と語るように、坂さんの活動はまだまだ継続中だ。
坂さんは、人を喜ばせることが好きな人だ。クライストチャーチの大聖堂では、ステンドグラスのモチーフを旧聖堂から得ている。フランスのポンピドゥーセンター・メスでは、チューブ状の展示室の先端にある大きな窓から町の象徴となる風景を絵画のように楽しむことができる。今月25日に着工されたJR女川駅新駅舎は水鳥が羽を広げた形になる予定だ。
人権という視点に立ち、独創性をもって人々に愛される建築をつくること。当たり前のことかもしれないが、東北被災地の現実を見るとそれがとても難しい。坂さんの受賞によって新しい風が吹き込むことを祈っている。
中島みゆき(毎日新聞記者)
写真=女川町の仮設住宅入居者に住み心地や改善点を聞く坂さん(2011年10月)