▶ 2014年5月号 目次
1973年・第四次中東戦争体験記⑧
-新たなアラブ・アイデンティティの誕生-
鶴木 眞
ゴラン高原でイスラエル軍は、激しい戦車戦の末、シリア軍への反攻が成功し、逆にダマスカスが眺望できる地点まで進出して戦線を定着させた。ダマスカスへの進撃を思い留まった背景にはソ連邦によるけん制もあった。しかしシナイ戦線では、なんとかエジプト軍の進撃を喰い止めることには成功したが、反撃する戦力には欠けていた。イスラエルの決断は、シリア戦線で使わなくてもよくなった戦力を、シナイ戦線に転用することであった。エルサレムは武器転送の通過点となり、数日間、暗くなると戦車を複数台積んだ大型トレーラーが騒音や地響きをともなってシナイ半島方面に向かって行った。
夜は灯火管制が続けられ、戦争中に2回鳴り響いた「空襲警報」のサイレンで、防空壕に飛び込んだ。マンションの建物の基礎部分が半地下の防空壕になっていたが、そこは「トーチカ(塹壕)」としても使用できるように壁の要所・要所には銃眼が開けられていた。普段は「野良猫」の住みかであったせいで、糞があちこちにあり、蚤やダニが多かった。
戦争中の夜は、戦場に父や夫、恋人や子供を送り出している家庭にとって、恐怖の時間となった。戦死公報は、あまり人目につかぬように夕食以後の時間にもたらされたからだ。戦死を伝える際には、「心理的ケア」の専門家が同行していた。
第3次中東戦争の英雄「片目のダヤン」は、完全に「堕ちた偶像」となり、戦争の予兆を判断し誤った責任を問う声に曝されることになった。イスラエルはシナイ戦線の劇的打開を画して、エジプト軍の後方撹乱を任務とした特殊部隊(「タスクフォース」)を編成し、スエズ運河を渡らせた。
1973年10月16日にスエズ運河中央部を特殊部隊は渡河し、運河ごしにエジプト軍の半数を包囲することに成功した。この成功の裏には、特殊部隊の本隊より先に運河を渡る地点を確保するために潜入した複数の小隊があった。この小隊は、アメリカ陸軍の特殊部隊「グリーンベレー」を彷彿とさせるものであった。
イスラエル軍先鋒隊は、カイロへ突入する勢いとなった。ソ連邦はさらにイスラエルをけん制する動きをみせ、米国も停戦仲裁の動きを示すに至り、10月22日停戦が宣言された。その後のシリア、エジプトとの休戦協定締結交渉は、イスラエル優位の状況で行われた。 軍事的には、最終的にイスラエルが勝利した。しかし政治社会的には、アラブ側の勝利であったと私は思う。なぜなら、緒戦におけるアラブ軍の優勢は、イスラエル軍の「無敵神話」を崩壊させ、アラブ人に自尊心と自立心を取り戻させ、自律をもたらしたからである。
アラブ・アイデンティティの変化は、エルサレム旧市街の市場に出かけても如実に感じられた。旧市街内のあちこちに公然と「パレスチナ解放戦線(PLO)」の旗が落書きされるようになり、近接する「嘆きの壁」(ユダヤ教徒の聖地)と「アルアクサ・モスク」(イスラム教徒3番目の聖地)付近で衝突が繰り返されるようになった。パレスチナ・ナショナリズム、反シオニズム、反アメリカが、イスラエル占領下のアラブ人の間で公然と口にされるようになった。「インテファーダ」の原点である。これに対応して、イスラエルによるパレスチナ・アラブ人へ行使される武力も過酷さをエスカレートして行った。
鶴木 眞 (綱町三田会会員 東大名誉教授)