▶ 2014年8月号 目次
ソ連軍による日本人大量虐殺の記録~葛根廟事件から69年の証言~
藤原作弥
私たち「興安街 命日会」(大島満吉 会長)はこのほど一冊の本『葛根廟事件の証言 草原の惨劇・平和への祈り』(新風書房)を刊行し、日本記者クラブで発表した。命日会は、終戦時に旧満洲で起きたある事件で犠牲になった人々の鎮魂を祈る生存者を中心とした集まりである。
"事件"とは、終戦前日、昭和20年8月14日、満洲の葛根廟という名のラマ教寺院がそびえる丘の草原で、ソ満国境近くの興安街(現・中国・内モンゴル自治区ウランホト市)在住の約1300人の民間日本人の避難団がソ連の戦車軍団に殺戮されたジェノサイド(大量殺人)である。
当時ソ連は日本との間に中立(不可侵)条約を結んでいたが、一方的に破棄して、8月9日午前零時を期してスターリンの号令一下、国境を越えて満洲に進撃して来た。これは、後に日本軍兵士約60万人をシベリアに連行し、約6万人を凍・病死させた暴挙と並ぶ国際法違反である。
当時、興安街に住んでいた約4000人の日本人のうち東部地方の約1300人は近くの葛根廟駅から列車に乗るため徒歩で避難中だったが、午前11時頃、突然、寺院の丘の影から14台の戦車と装甲車が現れ、一斉に銃撃を開始した。戦車は鎌首をもたげてキャタピラーで逃げる老若男女を轢殺しながら、迫撃砲を発射した。
又、歩兵隊は自動小銃を乱射、真夏の草原は瞬く間に赤い血で染まり、阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
近くのクリークのような壕に逃げ込んだ人々には自死を選んだものも多かった。お互い短刀で刺し違えて果てた親子。青酸カリを仰いで死んだ家族。手榴弾で自爆を図ったグループ。生存者は100人にも満たなかった。
この葛根廟事件で生き残った人が中心になって犠牲者を弔い、事件を世に語り継ぐ「命日会」を結成したのは昭和30年のこと。戦前、興安街で建設業を営んでいた大島肇さんら遺族が呼びかけ、毎年、事件が起こった祥月命日(8月14日)に東京・目黒の五百羅漢寺に集まるようになった。その肇さんが亡くなった後、会長を次男の大島満吉さんが務めている。
私の一家は当初同じ避難団の名簿に入っていたが、一日早く行動を起こして現地を脱出、ソ連戦車軍団の毒牙から逃れ九死に一生を得た。その後一年半の避難民生活を送ったものの、無事に日本に引き揚げて来た。私は満洲体験の本を書くための取材の過程で事件のことを知った。大島さんは私より国民学校で一年先輩の四年生だった。小学生約200人中100人以上が事件でいたいけな命をおとした。以来、私には「自分だけが生き残った」という後ろめたさと、戦後日本の復興と繁栄は非業の死をとげた同胞の犠牲の上に成り立っていると痛感した。
長じてジャーナリストになり、葛根廟事件を含む満洲体験のノンフィクションを書いたのもそうした戦争体験の"語り部"としての責務からである。命日会に入ったのも然り。そして、二年前から大島さんらと当時の証言集を世に出す企画を話し合い、作業を進めてきたのは、来年、終戦70年、つまり葛根廟事件70回忌に、亡くなった同胞たちの御霊に捧げるためである。
現在の命日会の会員は 、生存者、遺族 及び私のような公安街関係者、更に、残留孤児、ボランティア活動家、満洲・モンゴル研究者、中国・モンゴル留学生、ジャーナリストなど多彩。今や慰霊のためだけではなく、戦争体験を風化させない「戦争と平和を語る会」の性格を帯びている。
満洲引き揚げ体験だけでなく、ヒロシマ・ナガサキ、沖縄戦、シベリア抑留、東京大空襲など様々な"事件"について、敗戦の夏、毎年8月に改めて検証されているが、今や、大宗を占める戦争を知らない政治家たちにはあの悲惨だった戦争の教訓をよく噛み締めてもらいたい。
さて、私たち「興安街 命日会」が、先月、7月17日 日本記者クラブで証言集について発表した際には、多くのジャーナリストが大島さんの体験談に耳を傾けた。壕に取り残された大島さん一家も自決を決意、先ず、母が大島さんの妹を刺殺、当時9才の大島さん自身も在郷軍人による斬殺の順番を待った という話に及ぶと、大島さんの声は震え、会場は静まり返った。司会を務めた私は一瞬、戸惑ったが、満場がこの沈黙の意味を反芻しながら祈っている様に思われた。
藤原作弥(作家・元日銀副総裁)