▶ 2014年8月号 目次

司法界に変化の兆し? 〜福井地裁原発判決など〜

栗原猛


一票の格差訴訟で違憲や無効判決が相次いだが、違憲状態の区割りで選出された政治家が集団的自衛権の行使の憲法解釈を変えるのは、問題だとして違憲訴訟を起こせるのかー。
「閣議決定は違憲だ」という裁判は、直ぐには起こせない。この先、関連法などができて自衛隊が出動して、家屋や畑がつぶされるなどの被害が生じた場合に、はじめて提訴できる。ドイツのように憲法裁判所があれば、一般的な違憲訴訟が起こせるが、日本では先のことになる。
そうした中で、このところ最高裁にいくつか変化の兆しがうかがえる。改革をけん引したのは裁判員制度で、「これまで市民には縁遠かった裁判に参加することで、『裁判は民主主義の学校』という考えが、浸透しはじめた」と言われる。また最高裁判事経験者などから、司法の変化を示唆する著作も続く。憲法学者の間からも最高裁の変化を促す発言が相次いでいることも見逃せない。政権交代が変化を促していると指摘する憲法学者もいる。
人、もの、カネが国境を超えてグローバル化する中であらゆる分野で、世の中の変化への対応が求められている。司法も世の中の動きを傍観するだけだったら、法に対する信頼が崩れてしまうだろう。
一方、最高裁自身も行政事件などで、政策形成など細かいところに目を向け始めている。「君が代訴訟」でも判決は合憲だが、裁判官の補足意見がいくつも付いて思想・良心の自由の「間接的な制約の可能性」を指摘し「教育現場での起立斉唱を求める職務命令の危うさ」を指摘するケースが出ていることだ。さらに注目される動きが、東日本大震災の直後の2012年8月に、原発訴訟が頻発することを想定して、全国の裁判官を集めて開いた研究会である。会議では一線の裁判官から行政手続きの適否の審理だけで原告敗訴という裁判を改め、原発の安全性に踏み込んだ審理をすべきではないかという意見が多く出されたという。「裁判官独立の原則」があるから、最高裁は方針を伝達する場合こういう形をとるのだと、ベテラン司法記者は言う。
福井地裁が今年5月に関西電力大飯原発3、4号機(福井県)の再稼働を認めない判決を出したことについて、自民党の原発推進派議員は「判決文は定年近い裁判官の文学作品だ」とこき下ろしたが、背景にある司法の変化を見ないと間違うのではないか。