▶ 2014年11月号 目次
中東イスラム地域の新しい抗争~原理主義過激派イスラム国と世俗国家~
鶴木眞
70歳を超えた私にはつい「この間」のような気がするが、1979年に外務省の依頼を受けてサウジアラビア、ヨルダン、シリアに出かけたことがあった。当時、慶応大学法学部で教授になりたてであったが、休職して外務省調査課の専門調査員として、イスラエル占領下のパレスチナ(西岸とガザ)で、アラファト率いるPLO(パレスチナ解放戦線)の影響力の調査に従事することになった。理由は、1967年の中東戦争(イスラエルvsアラブ諸国連合)で、イスラエルは電撃攻勢でアラブ側に勝利して領土を拡大した。エルサレム旧市街とヨルダン川西岸をヨルダン王国から、ガザとシナイ半島をエジプトから、ゴラン高原をシリアから奪い占領下に置いた。イスラエルに占領される以前、西岸はヨルダンが、ガザはエジプトが1947年の国連議決にもかかわらず占領したパレスチナの地域であった。ヨルダンにとって、エルサレム旧市街はイスラム教第三の聖地であるアルアクサ・モスクなどがあり、宗教的にも観光資源としても、早期の返還を強く求めていた。ガザはエジプトにとって、イスラエル国家の成立により生じたパレスチナ難民キャンプへの国連を中心とした救済基金が外貨獲得のために貴重な存在であった。とはいえ、エジプトはパレスチナ人をエジプト人とは考えていないので、ガザよりもシナイ半島の返還に軸足が置かれていた。
この状況下でPLOは占領下のパレスチナ人の間に勢力を浸透させていった。しかしヨルダンはこの状況を苦々しく観ており、ヨルダン支配下で公務員であった者への給与を払い続けていた。ヨルダン川西岸のパレスチナ人は、果たしてヨルダンへの再統合を望んでいるのか、新たに勢力を広げ国連のオブザーバーとしての地位も手にしたアラファト率いるPLOを支持するのか、日本の外務省は第一次情報が欲しかった。ところがヨルダンやエジプトを刺激したくなかった。そこで日本の外交官がじかに情報収集するのではなく、大学教授に学術調査させる形態をとることになった。
こうした調査の一環で、サウジアラビア、ヨルダン、シリアの出張が必要になった。イスラエルで使用していた公用旅券(外交官用の旅券は渡されていなかった)では、アラブ諸国へ入国できないので、アテネの大使館で別のパスポートをもらいサウジアラビアに向かった。
どこでどういう情報が流れていたかどうか不明だが、ジェッダ空港のパスポートチェックで1時間以上待たされた。ヨルダンでは何事もなかったがが、ダマスカスでは入国に他の旅行者をはるかに超える時間がかかった。在シリア大使館では、外務省のアラブ専門官であった小高大使(当時)から多くのことを学ばせて頂いた。当時はイスラエルvsアラブが中東の対立軸が武力闘争の中心であり、地政学的重要箇所を再確認する上で貴重な視察であった。
この対立軸が現在では表舞台を去り、替わってイスラム国に代表されるイスラム原理主義過激派と世俗国家の対立軸が中東における武力対立軸となっている。それが今回のイスラエル軍によるガザ侵攻と市民の無差別殺傷への関心を遮断してしまっている。長年にわたって中東戦争の構図をつくりかることに成功したかに観えたイスラエル贔屓の米国と西ヨーロッパ諸国の深謀遠慮は、イスラエルの傍若無人な国防政策を黙認する一方で、イスラム原理主義過激派という意図しなかった「鬼の子」を出現させてしまった。チュニジアから始まった「アラブの春」の革命は、次々と世俗国家をつぶし、西欧による植民地支配で線引きをした人為的国境を無意味にしてイスラム本来の地政構図を復活しつつある。
元来、イスラム世界では世俗統治者を必要としない。宗教指導者を長とする聖職者と解釈が定律しているイスラム法学の権威者が社会統治者であるとする観念が社会の基層にある。現在のイランの政治体制がよい例であろう。この観念を抑えつけて世俗権力の優位性を誇示してきたのが、リビアのカダフィであり、イラクのフセインであり、エジプトのムバラクであり、シリアのアサドたちであった。既に述べたように、イラクとシリアは社会主義を標榜する政党の支配が長く続いたので、女性の社会進出はかなり進んでいた。女性兵士も珍しくなかった。これらの体制を崩して、「民主主義」なるものを持ち込もうとした挙句が、スンニ派原理主義者たちと、サダム・フセイン体制下の軍人たちをリクルートして構成されたイスラム国の戦闘部隊の台頭である。
鶴木眞(東京大学名誉教授 塾員)