▶ 2014年12月号 目次
エルサレムでの宗教的衝突と将来への懸念
鶴木 眞
11月6日、日経夕刊に「エルサレム=共同」の記事が載っていた。「ロイター通信によると、ヨルダンは5日、駐イスラエル大使を召還した。エルサレム旧市街にあるイスラム、ユダヤ両教徒の聖地「神殿の丘」周辺でのイスラエル側とパレスチナ住民の衝突などエルサレム情勢への抗議とみられる。ヨルダンの駐イスラエル大使召還は1994年に両国が平和条約を結んで以来はじめて」と伝えている。
イスラエルは11月30日、エルサレム旧市街にあるイスラム教の聖地を閉鎖したことに対し、パレスチナ暫定自治政府側が「宣戦布告に当たる行為だ」として厳しく非難したことを受けてのヨルダンの措置であった。イスラム教の聖地=「ハラム・アッシャリフ」は、ユダヤ教の聖地=「神殿の丘」に他ならない。
成立年代が古い順で言えばユダヤ教、キリスト教、イスラム教になる。この三宗教は基本的に同じ神(唯一神)への信仰でありながら、大元の預言者(神の言を預かった者)を誰とするかによって宗教が異なる。もっとも古いユダヤ教はモーセ、次のキリスト教がイエス、最後のイスラム教がムハンマドである。それぞれの宗教には預言者の言葉を記した聖書(旧約聖書、新約聖書、コーラン)がある。したがってこの三宗教の信者は、”People of The Book”(聖典の民)であるという認識を持っている。
エルサレムを聖地とした最初の王はダビデ王であった。南のジュディア、北のサマリアを統合してイスラエル王国をつくり、両地域が接する寒村エルサレムに神殿をつくり「神の箱」を安置し、政治的にも首都とした。その後エルサレムの宗教的支配はキリスト教(ローマ、ビザンチン)、イスラム教、キリスト教(十字軍ラテン王国)、イスラム教(オスマントルコ)と移り変わり、第一次世界大戦後はイギリス(キリスト教徒)、第二次世界大戦後はヨルダン(イスラム教徒)、1967年の中東戦争後はイスラエル(ユダヤ教)と変遷した。
キリスト教徒にとってイスラエルは少年期のイエスがしばしば訪れて宗教的指導者としての素質を涵養したところであり、最後を迎えた所である。イスラム教にとっては、メッカ、メディアに次ぐ第三の聖地であり、ムハンマドが月に行き帰りしたとされている地である。
ユダヤ教徒が創った「神殿の丘」は、支配者の宗教によりキリスト教の教会(十字軍時代は「聖ヨハネ騎士団」の本部)、イスラム教のモスクと変遷した。重なり合う聖跡を巡る帰属論争には妥協がない。ただ宗教から離れた世俗的視座から、共存を綱渡りで模索するのみである。
現代イスラエルは、ユダヤ教徒のための国家であるが、婚姻法などを除けば世俗的法秩序が支配している。イスラエルは、丘の上が異教徒の支配に堕ちて以来、神殿の丘の西側の壁(いわゆる「嘆きに壁」)を、最も神聖な場所としてきた。
しかしイスラエルの右翼勢力の中には、「神殿の丘」を自分たちの手に取り戻すべきだとする主張も根強い。イスラエルの右派の議員らが「神殿の丘」の分割を計画しているという噂がパレスチナ側で広がり、イスラエルの治安部隊との間でたびたび衝突が起きていた。 今回の騒動は、複数のユダヤ教徒が神殿の丘の上のモスクに入ろうとしたことから、パレスチナ人が抗議のため石を投げ始め、駆けつけたイスラエルの治安部隊との間で衝突が起きたのだ。
神殿の丘のあるエルサレム旧市街は東エルサレムにある。東エルサレムはヨルダン川西岸とともに1949年ヨルダンに占領され、第三次中東戦争でイスラエルに占領され今日に至っている。第二次大戦後の国連決議によりイスラエルとともに建国されるはずであったパレスチナは国家として産声を上げきれない間に、ヨルダン(西岸)とエジプト(ガザ)イスラエル(ガラリアと死海沿岸西部)により占領されてしまったのであった。ヨルダンにとってエルサレムは宗教的にも観光で外貨獲得の手段としても支配権を取り戻したい土地である。一方、パレスチナ人にとっては、国連決議に従ってイスラエルと同様、パレスチナ国家を創り、首都をエルサレムとしたい熱望を持っている。
エルサレムでの騒動は、宗教的にも世俗的にもたやすくグローバル化する要素を内在している。同時にエルサレム問題は、外の世界の宗教的、世俗的紛争に容易に議題の一つとして設定される恐れを持っている。ISSIの牙がイスラエルに向けられるとしたら、中東のみならず先進国を巻き込むおそれを十分に持っている。
鶴木 眞(東京大学名誉教授 綱町三田会員)