▶ 2015年4月号 目次

客観報道と民主化プロジェクト −インドネシア・ジャーナリズムの現状−

山本信人


 インドネシアには報道の日がある。祝日ではないが、同国の闘争的なジャーナリズムの歴史を語るうえでは記念すべき日である。
 報道の日の制定には歴史的な背景がある。1946年2月9日、インドネシア共和国の勢力下にあった中部ジャワの古都ソロで、インドネシア・ジャーナリスト協会が結成された。当時のインドネシアは、1945年8月17日にスカルノが独立宣言を発したもののオランダがそれを認めず、オランダとの独立戦争の最中にあった。ジャーナリスト協会には対オランダ闘争を支持するジャーナリストが集結し、かれらは団結して民族独立、民主主義を代弁する人民の声としての新聞を発行し続けた。
 このような歴史があるために、1998年5月に、32年間にわたる独裁的統治を続けていたスハルト体制が崩壊し民主化が開始されると、報道の日は言論の自由という民主主義の象徴として改めて記念された。しかし、ことしの2月9日はそれまでとは異なる様相をみせた。当日の日刊紙面では、闘うジャーナリズムの伝統を明示した記事はきわめて少数派であった。放送メディアでは言及すらないというあり様であった。
 なぜこうした事態に陥ったのか。それは端的にいうと、ジャーナリズムの政治的中立性が疑われ、客観報道なる言葉が現実味を帯びなくなった状況を反映している。1998年半ば以降、政治的自由が拡大するのと軌を一にして、報道・言論の自由も拡大した。象徴的であったのは、1999年9月に施行された新報道法であり、政府の検閲や発禁処分の恐怖から解放されたメディア産業は急激に発展した。日刊紙や週刊誌、タブロイド紙が街に溢れ、テレビやラジオ局も激増した。政治に関連する討論番組やトーク番組が連日のように放送された。政治家やエリートの汚職や権力腐敗に対する庶民の声もメディアに乗るようになった。市井の民が政治を自由に語る空間が登場したとの期待が高まった。
 ところが、国際的な民主化支援のもとにあったインドネシアには、新自由主義政策が定着することになった。メディア産業の自由化は資本力にものをいわせる実業家のメディア産業への進出を誘発した。大資本による地方紙の系列化をもたらし、野心的な実業家がテレビ局を創設し、自分の支持する政治政党を優遇する報道チャネルが出現した。この傾向は、2004年から開始された直接大統領選挙の前哨戦から激しくなった。2000年代後半になると、主要政党がお抱えのメディアを有する事態になった。