▶ 2015年7月号 目次

「 絶歌」出版の問題を考える

佐久間憲一


 神戸連続児童殺傷事件の犯行当事者である「元少年A」の手記『絶歌』が出版されて、ひと月弱。やや落ち着いてきたとはいえ、この手記の出版に対する反応の際だったところは、その内容や記述への論評もさることながら、出版そのものを問題視し、槍玉に挙げているいる意見や主張が大勢を占めているとことであろう。
 テレビ番組のキャスターやコメンテーターは言うに及ばず、普段は社会問題にコミットしているとは思えない芸人やタレントまで「この出版を許してはならない」といった、激しいバッシングの嵐。雑誌でも同様な論調が多く、ネットにおいてはそれに輪をかけた罵詈雑言といった事態である。  いささか、異様ともいえるこうしたファナティックな反応は、どういった理由から生じたことなのだろうか。
 というのも、いままで凶悪事件を犯した人間が手記や作品を発表し、話題となった例はいくらでもある。思いつくまま著書をあげてみよう。1968〜69年、未成年で連続ピストル射殺事件を起こし死刑判決を受けた永山則夫の『無知の涙』(1971)、あさま山荘事件の主犯格の二人である永田洋子と坂口弘(ともに死刑判決)が著した『十六の墓標 上・下』(1982・83)『あさま山荘1972 上・下』(1993)、1981年、パリ人肉事件を起こした佐川一政の『霧の中』(1984)、1993年に発生した埼玉愛犬家連続殺人事件の共犯者が出所してから出版した『愛犬家連続殺人』(2000)、福岡県大牟田市4人殺人事件の実行犯の一人の手記をもとに描いた『我が一家全員死刑』(2010)、最近でも英国人女性殺害犯・市橋達也の逃亡中の模様を記録した『逮捕されるまで 空白の2年7カ月の記録』(2013)などがある。

 すくなくとも、これらの書籍の出版に際して、出版それ自体が、世の中の大多数の意見としてあからさまに否定されたことはないはずだ。
 おそらく、今回の〈様相〉を引き起こすきっかけとなったのは、一つには、事件の被害者である土師淳君の父親が、版元である太田出版への出版中止を求める声明を発表したことであることは、間違いないだろう。
 その意味するところは、「被害者遺族の感情を無視」した手記の出版は、当人のかつての犯罪同様に無慈悲かつ残忍な——被害者を二度殺害したにも等しい——行為なのだ、ということだ。
 そして、もう一つの論点。凶悪事件の犯行当事者が、そのみずから犯した事件を〈ネタ〉に印税などの利益を得るのは不当ではなかろうか、といった疑問である。
 まず、第一の論点であるが、私は被害者の心情を理解しつつも、それでもなお、表現と出版の自由が優先されるべきだと考える。誤解を恐れずにいえば、どんなに注意し配慮しようとも、本を出すという行為は意図せずとも、誰かを傷つけたり不快にさせたりすることが起こりうる。そのことを、終始念頭に置きつつ出版社は出版という行為に赴き、継続していく責任と義務がある、ということだ。
 重要なのは、出版社にとって〈刊行したいと思う〉本(または雑誌)を検閲などの規制を受けずに出版する自由が保証されており、同時に、意に沿わない表現や出版が強制されない、ということでもある。