▶ 2015年11月号 目次
ミニゼミリポート 出版にかかる道義的責任は重い~「絶歌」を巡って~
荒巻佳孝
2015年度第3回の綱町三田会ミニゼミが9月30日、慶應義塾大学三田キャンパスで開かれた。今回のテーマは、神戸連続児童殺傷事件を起こした元少年Aによる『絶歌』の出版についてである。メディア・コミュニケーション研究所の学生と担当教授、そして研究所OBOGを中心とするジャーナリストが熱い議論を交わした。学生が①『絶歌』に関わる新聞報道の比較分析②『絶歌』の出版にかかる太田出版の商業主義的傾向に対する疑念③アメリカ合衆国の「サムの息子法」(Son of Sam Law)を参考にした、犯罪者による出版に対する法整備の必要性についてのレポートを発表した。以上3名の学生の発表を基礎に、議論が展開された。
冒頭における学生の報道分析から、『絶歌』報道では批判点が複雑にまざりあっており、論点を絞って議論を進めるべきであることが共通認識となった。そこで、今回ミニゼミの議論の中心は出版の責任を犯罪者に求めるか、もしくは出版社に求めるか、ということに置かれた。責任は出版社に強く求められるべきである、とした学生側は、レポートの中で、『絶歌』を出版した太田出版の姿勢は商業主義的な姿勢が露骨に現れているとして批判した。『逮捕されるまで 空白の2年7ヶ月』(市橋達也、幻冬舎、2011年1月)の初版が2万部であった一方で、『絶歌』は初版が10万部である。ノンフィクションの犯罪を題材にして、元犯罪者と出版社が莫大な利益を得ることは倫理的に好ましくないのではないかと問いかけた。この問題提起に引き続き、犯罪者による出版に関わる法を整備した後に『絶歌』が出版されるべきであったというレポートが発表された。仮に『絶歌』出版に社会的な意義があるとしても、莫大な利益が生まれる構造には問題があったと振り返った。アメリカ合衆国で施行されている「サムの息子法」のような、元犯罪加害者と出版社が自らの犯罪を材料に執筆した作品から利益を得ることができない法を整備すべきだとして学生側は発表をまとめた。
ジャーナリスト側は、出版業の前提として商業が成り立たなければいけないので、商業主義であると批判したり、出版社による赤字覚悟での出版を求めたりすべきではないと答えた。そのうえで、出版社の利益を求める姿勢よりも、出版された作品の内容が社会に与える悪影響について批判すべきであると主張した。そして、「サムの息子法」レポートに対する言及として、法整備をするよりも、今ある手段をさぐらなければならないと答えた。もし「サムの息子法」をそのまま適用したとしても、その書籍をもとにした講演会を行うなどの抜け道が存在している。営利的な活動を完全に規制することは難しいとして、新たな法規制にはジャーナリスト一同が懐疑的であった。「表現の自由を守らなければならない」という憲法的な論議は、論点が飛躍しているので問題の解決を妨げる、として「石に泳ぐ魚事件」(最判平成14年9月24日)で最高裁が新潮社に対し、書籍の公表を禁じたケースを提示した。『絶歌』のケースにおいても、民法709条(不法行為上の名誉毀損)等の現行法を解釈・適用したり、出版社側による刊行前の遺族・関係者との交渉などの対応によってトラブルの発生を未然に防いだりと取れる手段は十分に取れたはずだとしてまとめた。
以上の議論を経て、私は以下のように考えた。出版社は高い倫理性を持ち、出版物に道義的責任を負った上で出版を行わなければならない。マスコミ・出版業界を商業主義的であると批判することは、その営為の根本を否定することになりかねないということは頷ける。しかし、あえて問いたい。商業だからといって、倫理的な側面を無視した営利活動を行うことは許されるのか。『絶歌』出版の段取りにおいて、遺族関係者に対する事前交渉は全くおこなわれなかった。もちろん、元少年Aが過去に罪を犯したからといって、「生きるための」活動を禁じる権利は、我々にはない。だからこそ、出版を代行する企業にはその全面的な責任が重くのしかかる。規範的概念としてのジャーナリズムは、商業のなかに埋もれてしまってはいけない。
次回のミニゼミは12月16日(水)を予定している。
荒巻佳孝(慶應義塾大学法学部法律学科2年)