▶ 2016年5月号 目次
<ジャーナリストをめざす若い人へ>事件の深部に突き進む勇気を
滝鼻卓雄
1968年から1974年にかけて、千葉、埼玉県、東京都で女性に対する暴行殺人事件が相次いで起きた。その数11件に上った。いずれも一人暮らしの女性だけが狙われ、犯行の手口が似ていることから、同じ犯人という見方が、捜査当局や報道関係者の間で広がった。
74年9月、当時30歳代の男が窃盗の容疑で捕まった。いわゆる別件逮捕だったが、その後、松戸市で発生したOL殺人事件の容疑者として、殺人容疑で再逮捕された。
当時の新聞の見出しをみると、びっくりする。
「ウソの天才、捕われの人生」
「盗癖、平然とウソ」
「実直さの裏に悪魔の顔」
「愚直な男、犯罪ではプロ」
新聞報道は一連の事件との関連を色濃く書き、このような見出しになった。いまの新聞では絶対に見られない表現だ。これでは読者に対しては、不確かな先入観を与えてしまっている。有罪が確定するまで無罪の推定を受けるという、刑事司法の原則を言うまでもなく、報道の原則をも踏み外している。
その男は、一審判決で無期懲役になったものの、二審では、警察で違法な取り調べ(自白の強要)があったことなどのために、無罪が言い渡され、確定した。
(その男は、その後別の殺人事件で起訴され、有罪が確定している)
そのころから、犯罪報道のあり方がいろいろな面で問題視されるようになった。当時私は新聞社の社会部長の職に就いていた。新聞の犯罪報道を問題視した大学教授、弁護士、ジャーナリストOBの人たちは、新聞紙上での座談会、パネルディスカッションの席に、私を呼び出し、犯罪報道と容疑者の基本的人権との関連を問い詰めてきた。被害者の人権については、あまり追及されなかった。
この事件が転機となって、容疑者の過去(前科○犯、逮捕歴×回というような書き方)、家族関係(親の職業、両親がいるかどうかなど)、成長過程(通学歴、友人関係、転居の経緯など)については、慎重な書きぶりに傾いていった。さらに個人情報の保護という考え方が強まった結果、居住地や学校名が特定されないような記事が氾濫していった。テレビ・ニュースでは、事件関係者(目撃者、少年事件での学校関係者、商店の看板など)には、モザイクがかけられ、全校集会や葬儀に集まる人たちについては、足だけを写す。もちろん露出していい場合、いけない場合の限界はあるが、できるだけ問題にならないような、委縮した報道姿勢に変わってしまった。
犯罪報道における匿名化はどんどん広がっている。犯罪報道の大きな目的は、犯罪事実を正確かつ公平に取材して書くこと、それとともに犯罪が起きたバックグラウンドを深いい所まで把握することである。
そのことが犯罪の予防的効果につながるからだ。最近の犯罪報道の傾向としては、犯行の手口をこれでもかこれでもかというほどに、詳細に紹介する。そこまで知りたくないと思うケースに、新聞やテレビのニュースでしばしば出会う。
犯罪の手口を詳しく伝えることで、凶悪犯でも知能犯でも、必ずと断言してもいいほど、同じような模倣犯罪が起きる。例えば、殺人の道具にされる凶器の作り方、爆発物の製造方法、住居への侵入方法などである。警察当局は犯罪の違法性を社会に印象付けようとするために、かなり詳しくメディア側に公開しようとする。「振り込め詐欺」のような事件では、手口を詳しく伝えた方が、確かに若干の予防効果はあるが、それよりもマネする危険性の方が大きい。私はそう思うが、インターネット・メディアに慣れ親しんでいるオーディエンスたちは、もっと刺激的な事実を知りたがる。そのような傾向は間違っているのではないか。
詳しい犯行の手口を一生懸命に報道することよりも、伝えるべき大切な役割が犯罪報道には存在している。
前に書いたような露骨な「見出し」は、明らかに間違っている。捜査当局が狙っている犯情の立証に加担しているか、記者個人の感情(記者根性とは違う)がむき出しになって紙面に露呈してしまったのか。どちらかであろうが、読者の目を引き付けるための「見出し」といっても、“ニュースの道”からは大きく踏み外している。
犯罪報道で伝えるべき大切な要素とは、なぜ、犯罪が発生したか、である。具体的に説明すれば、容疑者の個人的なヒストリー、家族の事情、容疑者本人の成長の経緯、教育を受けた環境、友人・知人との交わり具合などだ。それらの点を用心深く、緻密に取材し、その結果について感情を殺した表現を使って記事にすれば、事件の本質、犯罪の核心に迫るニュースになる。それこそ価値の高いニュースだ。個人情報に触れる可能性がないとはいえないが、触れてこそ価値の高いニュースになる。
今になって振り返ってみると、私が社会部長の仕事をしている時代、犯罪報道で進むべき道を誤ってしまった。その誤りが今も続いている。
昨年の二月、川崎市で中学一年生の少年が惨殺された事件があった。首謀者は18歳の少年だった。いかなる家庭環境が18歳にして、殺人容疑者で逮捕されるという悲劇を生んでしまったのか。18歳少年の家庭環境、交友関係、通っていた学校、学校から離れてしまった事情、そして地域から寄せられていた関心。どれもこれも報道されていない。
少年の法廷の中では、ある程度の家庭環境に触れられていた経過があった。それでも新聞は、判決の時、事件の深部に触れるようなニュースを流していなかった。なぜ、こんな事件が起きたのか。読者は分からないままでいる。
このような事件の取材は難しい。だからこそ取材する価値がある。これから事件記者を目指す若きジャーナリストたちは、刑事訴訟法の研究者や弁護士の机上の議論に巻き込まれることなく、事件の深部に突き進む勇気を持ってもらいたい。
滝鼻卓雄(元読売新聞社長)