▶ 2016年5月号 目次

「ティノンバラ作戦」とポソ県のテロリスト訓練地 _インドネシアにおける対テロ利権構造⑵

山本信人


 ティノンバラ作戦の継続的展開の謎を解くためには、その背景としてポソを取り巻くインドネシアの歴史を振り返る必要がある。といっても振り返るべき歴史は、1998年以降という20年弱の期間である。この間にポソとテロリズムとが結びつくメカニズムが発生し定着した。それはテロ集団と対テロ対策をする政府の双方が造りだした状況であった。
 1998年といえば、インドネシアでは32年間政権の座にあったスハルト大統領が辞任をした年である。スハルト辞任の前後1年ほどの期間は、インドネシア各地で反華人暴力や教会への攻撃が連鎖のように発生していた。他方、政治的には1999年に総選挙が予定され、雨後の竹の子とごとく政治政党が結成されたこともあり、政治的な自由化が国民を熱狂させた。インドネシアが独裁から民主化への道を歩み始めたと、インドネシア国民のみならず海外のインドネシア・ウォッチャーも実感していた。
 政治的な自由化という風潮は社会勢力の再編をともなっていた。とりわけスハルト時代に政治的・宗教的に抑圧されていたイスラム勢力の活動が顕在化するようになった。インドネシアは世俗国家であるために、イスラム勢力のなかにはイスラム法に則る社会秩序の再編を望む声を上げる集団もあり、かれらはポスト・スハルト期になると活動の幅を広げていった。そのために1998年後半から2001年にかけて、いわゆる民主化の移行期といわれる時期には、インドネシア各地、特に東インドネシアではイスラム教徒対キリスト教徒という宗教紛争が広範囲にわたって勃発した。マルクとポソはその典型的な事案である。
 ポソでの暴力は些細な出来事から始まった。契機は、1998年12月のクリスマス翌日に発生した、イスラム教徒とキリスト教徒の若者のあいだの喧嘩であった。それが瞬く間に宗教間紛争へと発展した。爾来2001年までのあいだに、イスラム勢力の優勢期とキリスト勢力の優勢期が交互に展開する三つの大きな紛争の波があった。両者が共生していた平和であったポソ市は文字通り廃墟と化した。正確な数字はないものの推計で2500名ほどが死亡し、その数倍の住民が怪我を負い、10万人の住民がポソを離れた。2010年時点の人口調査でポソ県には40300名が登録されているというから、住民が戻ってきているとはいえ一連の紛争でポソの人口は優に半減していたことになる。そしてポソはイスラム教徒が優位の社会空間と化した。
 一連の紛争の過程では二つの事実が明らかになった。第一は地元警察には治安維持能力が欠如していた点、第二に暴力の激化には外部勢力の加勢があった事実である。本稿との関連では二点目が重要である。