▶ 2016年9月号 目次

六輔と巨泉の死が残したもの

荻野祥三


 2016年の夏、日本の放送史に大きな足跡を残した同世代の人物2人が前後して世を去った。83歳の永六輔と82歳の大橋巨泉である。共に東京の下町で生まれ育ち、学歴も早稲田大学中退という2人は、得意分野や活躍の場は違ったが、遊びを仕事にする洒脱さや、反骨・反権威の精神という共通点があった。日本の放送、中でもテレビが大きく飛躍した時期だからこそ生まれた自由人だった。
 浅草の寺の息子だった永は、日本の伝統文化・芸能に関心を寄せた。「忘れられた日本人」の著作で知られる民俗学者の宮本常一に大きな影響を受けている。テレビやラジオの番組で日本全国をくまなく旅し、そこから発信した。パーキンソン病になってからも仕事は止めずに、亡くなる直前まで出演した。
巨泉の実家は両国のカメラ店。戦後解禁されたジャズに魅せられて、大学在学中からジャズ評論家として活躍した。出世作となった「11PM」では、バニーガールを始め「楽しいアメリカ」を茶の間に見せた。日本テレビ、TBSなど民放を中心にテレビの黄金時代にいくつもの高視聴率番組を手がけたが、50代半ばで「セミリタイア」を宣言、放送界とは距離を置き、一年の大半を海外で過ごした。
得意分野や晩年の仕事への距離感は対照的だが、2人とも学生時代から放送界で、「自分が楽しいこと」を続けるうちに、気が付くと業界の中心にいた。
永の出世作となったNHKテレビの「夢であいましょう」のビデオを見ると、「上を向いて歩こう」や「こんにちは赤ちゃん」でコンビを組んだ作曲家・中村八代との、「音楽が楽しくてたまならい」姿が見られる。
「クイズダービー」や「世界まるごとHOWマッチ」を企画し、自ら司会もした巨泉も同様だった。巨泉の功績の一つは、「お色気」「マージャン」「競馬」など、それまでは「公共の電波」に乗せにくい領域のものをスマートに番組化したことだ。
そんな、「趣味の番組化」が、高視聴率で長寿番組となったのは、テレビがまだ若かったためだ。民放の視聴率競争はあったが、番組の世帯視聴率が分かるだけで、今のように、視聴者の年齢、性別、一分ごとの数字が明らかになるような精密なものではなかった。テレビは娯楽の王様で、だからこそ巨泉の万年筆のCMコピー「はっぱふみふみ」が流行語になった。