▶ 2016年10月号 目次

「綱町三田会」の70年を振り返る「歴史散歩」

高原 安


慶応義塾に、メディア・コミュニケーション研究所(メディアコム)という研究所がある。「メディア・コミュニケーションの研究、あるいは将来マス・メディアへの就職を希望するものに総合的な教育を行い、同時に研究の場を与える」ために設けられている。その歴史は、名称を変えながらも、70年となる。これを機に、その卒業生たちで作る「綱町三田会」が主催して、研究所の揺籃の地を含む、三田の山の上、下をめぐる「三田キャンパス歴史散歩」をした。奇しくも「新聞研究室」設立の日である10月1日のこと。キャンパスは日々、新陳代謝し、昔あった教室が新たな建物に置き換わる。そんな歴史にも通暁している福沢研究センターの准教授で、同研究所でゼミも持つ都倉武之さんの案内で見て回った。慶應の歩みを含め、歴史的なトリビアにも富んで、なかなかに興味深い「歴史散歩」であった。その報告をする。

♦旧徳川邸 =>慶応女子高
実際の見学順路とは逆になるが、研究所の歴史に沿って、まずは「新聞研究室」があった場所へ。港区綱町の旧徳川邸。OB・OGの会を「綱町三田会」と呼ぶのは、この発祥の地名にちなんでいる。ただ、この地が現在では、オジサンたちにとっては、すこぶる入り難い「女の園」・慶応女子高の敷地となっている。
この地は、1939年(昭和14年)11月に、田安徳川家の徳川達孝伯爵から邸宅ごと慶応が購入したのだそうだ。戦前は、文学部心理学教室、法学部法律鑑定部があり、のちに亜細亜研究所が利用していたが、空襲で643坪あった建物のほぼ半分、317坪を焼失していた。戦後の1946年10月、焼け残った建物の一部を使って米山桂三法学部教授を主任教授として「新聞研究室」が開設された。実践を重視したことから翌年6月には実習紙「慶応ジャーナル」(48年に「慶応義塾大学新聞」と改題)が創刊され、63年に348号で発行停止するまで継続した。
現在、その女子高校内で、往時を偲ばせる遺構は、旧邸宅の武士屋敷門と石垣の一部、庭園の部分だけ。私がわずかに記憶している半世紀前には残っていた木造2階建ての部分も、コンクリート造りの校舎に建替えられていた。庭園の隅に、徳川家の名残を示す葵の紋の丸瓦が瓦礫の中に残されていた。

♦三田5号館 「新聞研究所」に=>新図書館
「研究室」は、50年(昭和25年)には、山の上の5号館に住まいを移す。当時、新設なった5号館では「慶応義塾大学新聞」は、古い歴史をもつ「三田新聞」を相手に、「新人気鋭の新聞」として早慶戦特集号や塾創立100年の記念特集号などで奮闘した、と先輩方。その間、「研究室」は61年(昭和36年)に「新聞研究所」と看板が掛け変わり、兵どもの夢の跡は、新装なった新図書館に生まれ変わっている。