▶ 2016年11月号 目次
「日本人は異論を言う勇気を持て」 ―― 後藤田正晴・元副総理の遺言
栗原猛
自民党の憲法調査会で憲法論議に入っているが、同党の憲法論議の歴史で忘れてはならない一人に後藤田正晴元副総理がいる。
同党は一時、「自主憲法制定」という結党以来の党是を棚上げしたことがある。1995年の40周年党大会で「新綱領」から「自主憲法制定」を外し、「新宣言」の中で「新しい時代にふさわしい憲法のあり方について国民とともに議論を進める」とした。
党基本問題調査会長だった後藤田氏がかなり強引にリードしたことから、改憲派の若手議員からは激しい意見が飛び出した。その後しばらく深夜になると自宅に無言電話がかかり、カミソリの刃が何度も郵便されてきたという。
■ 国民はテロに喝采した
後藤田氏は戦前、内務省に入り、召集を受けて陸軍大尉として台湾で終戦を迎える。
戦後は警察畑を歩き警察庁長官の後、田中角栄元首相に乞われて政界入り。政界での辣腕ぶりから「カミソリ」「直言居士」などと呼ばれた。
後藤田氏の憲法観には、まずトップリーダに対する不信感が根底にある。戦時中、鬼畜米英と叫んでいた政府、軍部の高官たちは、いざ敗戦になると公職追放を逃れようと工作に走り、東京裁判では米側にすり寄る証言をした。こうした姿を数多く見て「日本人はトップになるほど自分がないな」と痛感する。
もう1つは昭和の歴史認識だ。1919年、第1次世界大戦が終わると世界中の景気が一気に好くなるが、すぐに反動がきて極端に悪くなる。大商社や銀行がつぶれ、農家では娘さんを売りに出すという事態になる。農村出身の兵隊から窮状を聞いた若手将校や右翼の青年たちは、義憤を感じて政治家のテロに走った。
1930年11月に浜口雄幸首相が東京駅で右翼の青年に狙撃され、1932年2月に井上準之助前蔵相、同年3月に経済界の実力者、団琢磨・三井合名理事長、同年5月に5・15事件で犬養毅首相射殺と、右翼や軍人による要人の暗殺が続く。
「テロが起きるたびに新聞は大きく取り上げ、国民はむしろ喝采するようだった」と言う。「景気が悪いのは政治家がよくないからだ」という社会風潮があった。だからよく「景気が悪いときは政治はよほど注意しないといけない」と口癖のように言ったものだ。
■憲法をアジアの中で考える
衆参両院で「改憲勢力」が3分の2議席を超えた。護憲の人も憲法の議論に参加することになった。後藤田氏はこの事態を予測していた節があり、事務所を訪ねるとよく憲法の話をしてくれた。「(憲法は)不磨の大典ではないから、内外情勢に対応し切れなくなれば、改正してしかりです。ただ憲法に流れている不戦条約(国策手段の戦争放棄)とか国連憲章を受けた平和宣言、国際協調や基本的人権、民主主義など近代国家としての価値観があったから、日本は誰も殺さずまた殺されることもなかった」「憲法を議論するには敗戦と戦後改革、戦後日本の歩みに対する歴史的な認識からスタートすることだね。天皇が象徴する日本とは何か。個人の尊厳、国民主権、多様性と寛容、平和主義を定着させるかなどは欠かせない―。
後藤田氏の憲法観で見逃せないのは、アジア情勢を視野に入れていたことだ。中国は安定に向かうのか、朝鮮半島の緊張はどうか、台湾情勢はなどアジア情勢をにらんでいる。中国や韓国と緊張関係にある時に憲法論議をしたら、両国を「敵視」する雰囲気の中で進められ、5年、10年先取り返しのつかないことになることを心配した。
もう一つ、晩年に気にかけていたのは日本人の国民性である。「日本人には会議などでも流れができると、ちょっと待てよという空気が生まれない。大事なことほどその場の空気で決まり、決まったら一気に走り出してしまう。異議を申し立てると変わり者だと白い目で見られる。職場でもどこでも『日本人にはちょっと待って、異論があるよ』という勇気が大事だね」
鎌倉霊園(神奈川県鎌倉市)にある後藤田氏の墓碑には「自身の戦争体験から来る平和への強い思いが一貫した政治信念であった」と刻まれてある。存命ならどのような直言が聞けるのだが、今は大きな転換期だからアンテナを伸ばして世界情勢を把握し、国内の矛盾をうまく調整して、外交のかじ取りを誤らないよう頼む――と言うのではないか。
栗原猛( 元共同通信政治部)