▶ 2016年12月号 目次

自著を語る『邪馬台国は熊本にあった!』——邪馬台国と「纒向」は結びつくのか?

伊藤雅文


 邪馬台国を知ることは、日本の源流を知ることにつながる。そう考えて、邪馬台国研究を始めた。そして、一つの結論を得て『邪馬台国は熊本にあった!』を上梓した。「魏志倭人伝」を読み解き、私がたどり着いたのは、縁もゆかりもない熊本の地であった。
 熊本の邪馬台国が、現代日本国の土台となるヤマト王権へどうつながっていくのか。あるいはつながらないのか。邪馬台国を解明したつもりの私は、次にその命題に取りかからなければならなくなった。
 ヤマト王権の成立を探るために、私が選んだのは『日本書紀』であり、まずその記述を考古資料によって検証するのが本筋だと考えた。だが、いきなり歯がゆい思いをすることになった。まさにヤマト王権発祥の地と考えられる、奈良県桜井市の纒向(まきむく)地域が邪馬台国に“なってしまっている”のである。
 特に2009年の大型掘立柱建物跡の発掘によりその傾向は加速したと思われる。「卑弥呼の宮殿か!?」とセンセーショナルな発表・報道がなされたのである。そして、纒向の遺構・遺物の年代は邪馬台国の時代である三世紀初頭から中頃に比定されるようになる。従来は四世紀半ばであるとされていた古墳の発生時期も、今では三世紀半ばまで遡らされ、箸墓古墳は卑弥呼の墓であるという見解まで現れている。
 しかし、邪馬台国畿内説の根拠はそんなに強固なものなのであろうか。
 邪馬台国を語るにあたってまず考えるべきは、「邪馬台国は文献上の存在である」ということである。魏志倭人伝に記されなければ、現代の私たちは邪馬台国の存在自体を知ることはなかった。同時に、撰者の陳寿は邪馬台国への行程記述も書き遺してくれた。だから、私たちはそれをもとに邪馬台国がどこにあったのかを論じることができるのである。
 ところが、畿内説においてはこの文献学的な検証が十分に行われていないのではないか。私には、考古学的成果ばかりが前面に打ち出されているようにみえて仕方がない。重ねて言うが、邪馬台国は文献上の存在であり、行程も書き記されている。畿内、纒向を邪馬台国と断定するには、行程記述をどのように読み解けば、纒向にたどり着くかを明らかにする必要がある。しかし、現在の発表・報道はそれに目をつぶり、「畿内に邪馬台国ありき」の上でなされているように思われる。
 三世紀前半、全国に多くのクニが成立していたことは間違いない。各地で発掘される大規模な環濠集落などを見ると、邪馬台国に匹敵する強力な国が存在した可能性も否定できない。