▶ 2016年12月号 目次
マラソン・エッセイ 途中撤退を覚悟したが..
土肥 一忠
クリスマスが近づいてきました。今年ももう終わりですね。すっかりご無沙汰しています。皆さんお元気ですか。気温が低くなってくると、ランニング・シーズンの始まりです。僕は11月20日に「つくばマラソン」を走ってきました。「つくば」を走るのは3年連続、半年ぶりのマラソン・リポートです。
マラソン会場につくと、昨晩より気温が急に上がったからでしょう、霧が漂っていました。木立の先にぼうっと霞んだ太陽が見えて、なかなかお洒落な雰囲気です。15,000人が走るだけに会場はもうランナーで一杯です。これからフルマラソンを走るということで、みんなハイテンション、仲間同士で盛り上がっています。こちらまで気持ちが高揚してきます。70歳を超えた僕にとっては、他では味わえない気分です。たまりません。
僕の所属している磯田ジョギングクラブ(IJC)では、この夏、新しいユニホームを作りました。転車競技などの選手が着るサイクルジャージで、色はピンクの縦縞。縦縞はサッカーのユニホームにはよくありますが、ランナーのシャツには珍しい。デザインはクラブ・メンバーの2人のデザイナーが考えてくれました。我が家で出来たばかりのユニホームを家人に見せると、第一声が「わっ、可愛い!」でした。「つくば」にはそのユニホームを着たメンバーが15,6人集まりました。そのうち半数近くが女性です。そろったところで全員で記念撮影。数年前まではクラブに属さず、僕は一人で走っていたのですが、歳が20も30も違うこういう仲間ができるのはとても楽しい。さあ、いよいよスタートです。
「ダーン」。9時過ぎ、ピストルの音とともに、マイクを通してスターターの元オリンピック・マラソン選手、増田明美さんの声が響きます。「行ってらっしゃ~い。ピクニック気分で楽しんできてくださ~い」。気持ちが一段と高まりました。
4キロを過ぎると、最初の給水所がありました。もう大学の構内は抜けて、周りには刈り取りを終えた田んぼが広がります。広々として、いい気分です。この辺りに来ると、晴れていれば筑波山が見えます。しかしこの日は霧の影響でしょう、全く見えません。少し暑くなってきました。本来はこんな日は半袖だけのほうが良いですが、僕はユニホームの下に長袖を重ね着しています。鈍足ランナーにとっては、足が動かなくなる後半には気温も下がり、寒くなるからです。
10㌔の表示を越えました。手元のランニング・ウオッチを見ると、タイムは1時間4分。この日はとくに目標タイムは決めませんでした。決めていたのは、ハーフを2時間20分くらいで走ろう、ということだけです。後はその時の調子だ、と考えていました。と、突然肩を叩かれました。横を見ると、同じユニホームを着たIJCのランナーです。彼も去年「つくば」を走りましたが、30㌔過ぎで足がつって、ゴールまでが大変だったようです。「去年のリベンジです」。そう言って僕を追い抜いていきました。レース中にこうやってクラブ仲間で声を掛け合えると、元気が出ます。
企業の研究所などが並ぶ工業団地に入りました。ここからはコース沿いに素晴らしい銀杏並木がどこまでも続きます。僕は目の前の女性ランナーの後ろにピッタリついて走りました。長い距離を走る場合、こうやって誰かに引っ張ってもらうと楽なのです。ペースは6分15秒/㌔。僕にはちょっと速いのですが、ついて行きました。
実は夏前から、月に一度接骨院に通って整体を始めました。もう少し速く走れるようにする。ケガを防ぐ。年齢をさらに重ねても走れる。その三つができるような体を作ることが目的です。トレーナーにたっぷりマッサージをしてもらい、教えてもらった簡単なストレッチを日々繰り返しています。その効果があったからでしょう、10月に走ったハーフマラソンは2時間6分と、僕としては良い記録が出ました。ベテラン・ランナーによると、ハーフの結果の2倍に10分加えたものがフルのおおよその所要時間という話です。それからすれば65歳でNYマラソンを走った時以来の4時間台を出せる計算です。この日、心のどこかでそれを期待していました。
ところがです、目の前にあったはずの女性の背中が19㌔くらいから遠ざかり始めました。追いつこうと思っても離されていきます。20㌔を過ぎるころにはとうとう姿が見えなくなってしまいました。僕のペースが8分/㌔程度に落ちています。これでは4時間台どころではありません。足の動きが鈍くなってきました。
中間点を過ぎました。タイムは2時間19分43秒、予定通りです。でもここまでペースが落ちるとは思ってもみませんでした。「マラソンはダメだと思ったところから始まる。それが面白い」。誰かがそんなことを言っていたのを思い出しました。ハーフ先の給水所にあった給食のキュウリを食べながら、どうするか考えました。目標を4時間台から5時間半に切り替えました。それには残りのハーフを3時間ちょっとで走る。ペースにすれば9分/㌔程度です。「よしっ、ゆっくり行こう」。とにかく完走です。
ペースを落とすと、ランナー全員が僕を追い抜いていきます。本当に全員です。ビックリするくらいです。これまでは流れに乗っていましたから、皆と同じようなスピードで走っていました。でも今は違います。一人だけ置いてきぼりを食ったような感じです。孤独感が募ります。年齢を重ねるというのはこういうことなのか、と妙に納得します。
30㌔を過ぎたあたりから走り続けるのが難しくなってきました。左足の付け根に痛みが出ています。トボトボ走っているのですが、歩いてしまいます。気持ちがどんどん萎えてきます。コースの所々に、リタイアするランナーを収容するための車が用意されています。その車が僕を呼んでいるように見えます。もう限界です。34㌔の給水所の手前でリタイアを決めました。残念ながら仕方ありません。
給水所でリタイアを申告しようとすると、そこではお汁粉が振舞われていました。ではお汁粉を飲んで、リタイアしよう。そう思ってお汁粉を貰いました。暖かく、甘いお汁粉が疲れた身体全体に沁み込んでいくようです。美味しい!「ご馳走様。ここでリタイアします」。器を返しながら、目の前にいたボランティアの若い女性に言いました。と、帰ってきた答えが「もう後8㌔ですよ。どうしてリタイアするんですか」、「もう疲れちゃった」。笑いながらそういうと「ダメ。お汁粉を飲んだ人はゴールまで行かなければいけないんです」。僕の言葉を冗談と受け取ったのでしょう、彼女は可愛い笑顔でそう言うのです。
もともと僕は女性に弱い、特に若い女性には弱い。彼女の笑顔を見て、甘いお汁粉を飲んだからでしょう、気持ちが前に向きました。「よし、じゃ、行くよ!」。「そうですよ。頑張ってください。もう少しですからね!」。彼女に励まされ、また前に進み始めました。
人間というものは不思議なものです。気持ちが前を向くと、身体も動き始めます。気力と体力はつながっているんですね。超スローペースですが、走り始めました。沿道から声援が飛んできます。「ナイス・ラン!」。そうすると僕も調子に乗って、手を挙げながら「有難うー」と大声で応えます。ついさっきまで、もうダメだ、と思っていたのに、です。
ようやく大学構内に戻ってきました。黄葉の盛りが過ぎた鈴懸の並木が続きます。10㍍を超える大きな見事な街路樹が疲れ切ったランナーを優しく迎えてくれます。僕と同じように、周りのランナーも皆、トボトボ歩いたり、何とか走ったり。さあ、もう少しだ!
「あと1㌔」の表示を過ぎました。最後の坂をフラフラしながら上り、しばらく行くとコースは左に曲がります。すると、正面に大学の陸上競技場に設けられたゴール・ゲートが見えてきます。いつの間にか、ゲートの先に筑波山がくっきりと姿を現していました。膝が痛みますが、最後だけでも、と競技場に入ってから走る真似をします。あと3歩、2歩、1歩、ゴール。やったー!
ゴールの先に、今年も増田明美さんが完走者一人一人と握手するために待っていてくれました。「やりましたね。完走おめでとうございます」。「有難う!明美さんと握手するために、苦しいのを耐えて、耐えて戻ってきたんだ」と僕。「頑張りましたね。今日はゆっくりお風呂に入ってください」。握手すると、とても小さな手でした。疲れた~。タイムは5時間55分31秒。
次は来年3月にフルマラソンを走ります。
土肥 一忠(元時事通信記者 )