▶ 2017年1月号 目次

 自著を語る「横浜を創った人々」—— 「横浜を創った人々」のすすめ

富川 洋


 昭和20年5月29日、朝から快晴、無風だった。午前9時過ぎ、米軍のB29 517機、P51戦闘機101機が横浜上空に姿を現わし、日本軍の高射砲や機銃弾幕の上を飛行し、高度から無差別に焼夷弾を降り注いできた。横浜大空襲だった。この空爆で、当時の横浜市街地の3分の1が焼け野原となり、人口97万人のうち死者は1万人近くに達した。関東大震災以来の大惨禍だ。2歳になったばかりの私は母に背負われ山王町から久保山に逃げ込んだ。ピカッピカッと赤い光が落ちるのが目に焼きついていたのをかすかに覚えている。
 8月15日、終戦。そして、8月30日にはマッカーサー元帥率いる米軍の進駐軍が横浜にやってきた。市街地の27%を接収し、中心部にカマボコ型の兵舎を建て、港湾施設の90%を米軍基地とした。野澤屋、松屋などの伊勢佐木町の店の多くが接収され、進駐軍用の食品店や病院として使われた。街なかに小型機の飛行場もつくられた。横浜の接収地が全国接収土地面積(332平方キロメートル)の62%を占めた。
 焼け野原と接収の二重苦。失業者の数も多かった。工場数は激減していた。そこへ復員軍人、一般帰国人が10万人弱も帰ってきた。失業者は町に溢れ、路上生活者は3000人を超した。食生活もどん底だ。スケソウダラ、大豆、芋などの代用食品が配給された。サツマイモや落花生などのヤミ買いも日常化した。
 そこから、横浜の終戦が始まった。ホンチ(ネコハエトリグモのオス同士を戦わせるクモ相撲。横浜でブームになった少年の遊戯)に夢中になっていた少年たちも零から出発した。このころ横浜で流行った言葉や人やもの。ビー玉、缶ケリ、ゴロベース、ルー・ゲーリック球場、マッカーサー劇場、MP、PⅩ、ピーナッツ、ハマジル、パンパン、オンリー、メリケン波止場、移民船、外国航路、南京町等々である。横浜人にとっては、いずれも懐かしく、身近に当時の生活、風俗を感じさせる。大人も、ホンチ少年も開き直って前を向いた。
 昭和23年ごろから食糧事情も少しずつ改善した。25年6月、朝鮮戦争勃発。26年4月、日米講和条約の締結。27年2月、大桟橋の接収解除。このころから接収解除が拡大されていく。30年代には、ご存知のとおり日本は成長途上を走り始めた。後半からは、ホンチ少年がいわば企業戦士として活躍の場を広げていく。横浜もまた国際港都として発展していく。開港160年足らずで370万人の大都会となった。